何して遊んだかって? 子供の頃は遊びまくりましたよ。

今週のお題「何して遊んだ?」

 

 何して遊んだかって?

 子供の頃は遊びまくりましたよ。今から60数年前の思い出です。まるで自分史を書いてるみたいでいいですね。

 

 私の子供の頃は、高野辰之の童謡のふるさとの歌詞のようだ。「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」と川でも遊んだし、よく集団でお宮で遊んだ。昔、雷が落ちて大きな穴が開いている大木の穴の中に入って登ったりもした。鬼ごっこや、2人が両端を持って回す大縄飛び、私は運動神経が鈍いので、中々回転している縄の中に入れず苦手だった。野球なんかもやった、お宮では狭かったけど。

 家ではままごとや、当時カール人形がはやっていて口とお尻に穴が開いていて口から水を入れるとお尻の穴から出るのだ。

 私は昭和25年に生まれた。終戦から5年経っていて物が無い時代であった.。

5歳ぐらいの時だったと思うが、よく親がお金無いのにカール人形を買ってくれたものだと思う。しかし外で遊ぶことの方が多かった。そして泥だらけになってお腹をすかせて帰って行く。母の作ったごはんは凄く美味しかった。ろくなおかずは無かったのだが。あの頃バナナがすごい高級品で中々食べられなかった。風邪をひいた時位かな、風邪をひくとバナナとミカンの缶詰が食べられるので楽しみだった。

 私の家の近くには子供が沢山いた。お金持ちの華子ちゃん(仮名)、当時はお金持ちと貧乏な家がはっきり別れていたような気がする。よく遊びに行き家に上がると文化的な素敵な家だった。オルガンがあったな。着ている洋服も何か違うんだ。でも父親が家にいて、私が行くとよく算数の問題なんかをだすんだ。1歳年下の華子ちゃんは答えられるんだけど、私はわからない。優越感を感じていたのかな、嫌みな親父だ。

 近所に交番兼住宅があって、その家には律子ちゃん、紀子ちゃん(いずれも仮名)と男の子2人がいた。その頃道路の舗装工事をやっていて、大きな土管が沢山置いてあって皆でその中に入って遊んだ。舗装してない道路は車が走るとホコリが舞い立ち、雨が降ると泥まみれになる。

 おまわりさんは優しい人だった。私はよくお宅でごちそうになった。奥さんは良妻賢母を絵に描いたような人だった。今でも覚えているのが、甘酒をもらったのだが、その中に黒い煮豆が入っていた。思わず「まずっ、普通の甘酒がいいのに」と、その他の食事はとても美味しかった。でもめったに笑わない人だった。

 おまわりさんは日曜大工が好きみたいで、裏庭にトタンや板で変な物置風なものを造っていた。地震がきたらすぐぺしゃんこになりそうな代物だ。今では考えられない、よき時代だったんだと思う。

 まずいと言えば、飲みはしなかったがこんなことがあった。私の家の隣は魚屋だった。ろくちゃんという人がやっていた。ろくちゃんが結婚して子供が生まれて私が遊びに行った時、奥さんがお乳が張ってしまい、ご飯茶碗になみなみとお乳を絞っていた。「飲む?」と聞かれ即座に断った。勘弁してくれよ。絶対いらない。

 私はかなり人なつこいと言うか、図々しいところがある。昔、駅から私の家の前まで路線バスが運行していた。そして運転手さんが私の家の水道が外にあったので、水を飲んで一息入れてから又駅に向かうのだ。あるとき私は運転手さんに頼み込んだ。「私を駅まで一往復、ただで乗せて下さい。」と、心の中では水道のお礼にと、ちゃっかり思いながら。ドライブは快適だった。

 家には越中富山の薬売りのおじさんが、薬箱の中の薬の交換に度々やって来ていて顔見知りになっていた。私はそのおじさんについて行ったこともあった。「おじさんと一緒に富山に遊びに行くか?」と聞かれて「父ちゃんに聞いてみる」と言って父親に話したら、こっぴどく怒られた。

 私の夫は子供の頃、家の庭に大きな木があって父親がその木の上に4人ほど入れる箱状のものを造ってくれて、よくそこで将棋をしたと話していた。映画のスタンドバイミーでもそんなシーンがあった。夢のある話だ。

 夫が生まれた昭和28年にテレビの放送が始まった。高額なテレビは中々買うことができず、私達は子供の頃、近所のお米屋さんに大勢で押しかけた。風小僧と月光仮面を見るために。風小僧を主演した山城新伍は昔はいい男だった。私はその頃から面食いだったんだ。月光仮面は大瀬康一、よく覚えている。そのうちお米屋さんにも「今日は来客があるからごめんね」とか言われて断られるようになった。だんだん近所でもテレビを買う家がでてきた。上皇ご夫妻の結婚式が昭和34年で、当時私は9歳、その時も隣の家で見せてもらったから我が家にはテレビは無かった。私はどうしても欲しかったので、段ボールの箱に穴を開け顔を出しては「父ちゃん、テレビ買って」と叫んだ。そして我が家にもやっとこテレビがやってきた。

 戦後の昭和の時代って映画、ALWAYS三丁目の夕日のまんまだ。貧しくて物は無かったけれどいい時代だった。子供達は自由に遊び、自然に親しんだ。この世で恐いものは地震・雷・火事・親父の時代だった。私の父親も威張っていた。仕事を終えて家に帰るとすぐに1杯酒を飲み出した。溶けて血が滴る鯨肉の刺身をつまみながら満州の話が始まるんだ。今の親父さん達は結構優しくなったと思う。

 時代は変わった。今は外で子供達が遊んでいるのをあまり見ることが無い。学校の校庭も放課後や休日も自由には入れず、少年野球などが許可を取って使用している。先日孫と近所の公園にサッカーボールを持って行ったらサッカー禁止の看板が出ていた。なんか窮屈な時代になったもんだ。

 子供達は習い事か、家でスマホでゲームやユーチューブを見ているのだろうか。

隣近所も挨拶程度、なんか寂しいものだ。

 世の中は進歩し続けている。このまま人間までもが、デジタル化(デジタルの意味が今一わからないけど)していくのだろうか?