父ちゃん、早く帰ってきて一緒に住もうよ

今週のお題「人生で一番高い買い物」

 

 人生で一番高い買い物はなんと言っても3年前に造った家だ。

 不要な物が置いて無い、風がスーッと通り抜けていく家が欲しかった。夫と2人で考えて理想の家ができたと思う。欲を言えばもう少しお金があれば地下にシエルターとバリアフリーにすればよかった。

 人間は必ず老いていく。母を医者に連れて行くのにほとんど歩行が困難になったので、車椅子を家の中に持ち込んだが、私1人で車椅子に座らせるのも楽じゃ無い。重いの何のって、あんなに痩せているのに。しかし93歳の母親を72歳の娘が看るって実に疲れる。特に玄関の階段は苦労した。バリアフリーになっていればもっと楽かもしれない。必ずややってくる老いに対する対策も考えておくべきではあった。やっとの思いで車に乗せて医者に行ったら、学会で休みだって。何の学会だ、むかつく。今朝方も1時と2時半に母から、いらっしゃいませのコールで起こされほとんど寝てないのだ。私の場合、寝入りばなに起きてしまうと朝までずっと眠れなくなる。

 自分がもっと高齢になっても息子に迷惑はかけたくない。せめて老後の資金にと時給900円で3時間、週2日の早朝バイトを頑張っている。あまり足しにはならないか。母がショートに行っているときに1度ネットの求人に応募して、ベルトコンベアーで流れてくる作業に行った。ゼリー飲料の何個か入った箱に仕切りを入れる作業だ。まるでうまくいかない。すぐに違うラインに替えられた。働くということは大変だ。

 そしてこれからの物騒な時代、お金さえあればシェルターは是非とも欲しい。

 

 新居は物が少なく、どこに何があるかわかるので、昔のように探し物をする時間が減った。特に義母は人生の何%かは探し物をしていたような気がする。物を探す時、台所のどこかに藁を縛り付けてかげつけさん?とか言う神様に祈っていた。探し物が出てきたのかこなかったのかは定かではない。私にとって物を探す時間が減った事はこれからの人生にとってプラスである。物が少ないと言えば思い出すのが、NHKで放送していた、司馬遼太郎の「坂の上の雲だ。秋山好古、真之の兄弟を阿部寛本木雅弘が演じていたが、その中のシーンで2人が一緒に暮らしていてご飯を食べるときに一つの茶碗で替わりばんこに食べるのだ。そこまで物が少ないと不便ではある。しかし昔に比べて今は物があふれている。その物によって住みにくくならないように注意が必要だ。

 家を造ることが決まると、地元の業者さんに依頼した。夫と間取りを考え設計してもらった。古い家のものすごい荷物を、使う物と捨てる物に分別した。毎日のようにゴミ処理場に不要品を運んだ。解体の日ギリギリまで片付けていた。すべて物が無くなった家は広くて結構いい家だった。不要な物で住みづらくしていたんだ。

 そして地鎮祭を経て建前(上棟式)の日がやってきた。家は娘婿のお父さんが大工さんで、棟梁として中心になって造ってくれた。私達夫婦は大工さん達に10時、3時のお茶、お昼には弁当やタケノコ汁を出して接待した。そして最後まで骨組みが出来上がるのを2人で見ていた。昔の建前は最後に施主さんからお酒が振る舞われた。そして棟梁が木遣りを歌った。私は父の木遣りが大好きだ。今は飲酒運転になるのでお酒は持ち帰っていってもらっている。

 建前といえば思い出すのが、ある時、父も関係した建前があった。その時は施主さんからお酒が出なかったので大工さん達が河原で火を焚いて、川魚を串刺しにして焼いた物を酒の魚にして酒盛りを始めた。そのうちに喧嘩が始まった。軽トラックの荷台に何人も乗せて奇声をあげて走り回ったりしている。まるで運動会の騎馬戦のようだった。私達は草むらに隠れて見ていた。大人の喧嘩は初めてだったので血が騒いだ。なんで私がそこにいたのかは覚えていない。

 又話がそれるが、父はよく夜に川へ行き、投網をうって魚をとっていた。お腹の赤いじんけんと呼んでいた魚がとれた。夜一人で行くのは厭だったらしく、私を連れて行くのだ。意外に小心者だったりして。生ぬるい風が吹いてヨシがさわさわと揺れている夜の河原なんて行きたくもなかったけど、断ると機嫌が悪くなるので仕方なくついて行った。よく我が家の鍋には川魚の煮付けがあった。高校の部活を終えてお腹をすかせて帰り、鍋の蓋を取ったらナマズが髭を生やしたそのままの姿で醤油で煮詰められてあった。

 

さて、話を戻そう。 建前が終わり、いよいよ中の造作が始まった。壁紙は、床板はと頭を悩ませた。数ヶ月たって出来上がった家は満足がいくものであった。今私はこの家で快適に暮らしている。

 

 早朝バイトを終え、平原綾香の明日という曲を聴きながらコーヒーを飲んだ。自然に涙が出た。夫はこの家でまだ2年と数ヶ月しか住んでいない。でも今は病院のベッドの上だ。

「父ちゃん、早く帰ってきて一緒の住もうよ」と私は心の中で叫んだ。

 

何して遊んだかって? 子供の頃は遊びまくりましたよ。

今週のお題「何して遊んだ?」

 

 何して遊んだかって?

 子供の頃は遊びまくりましたよ。今から60数年前の思い出です。まるで自分史を書いてるみたいでいいですね。

 

 私の子供の頃は、高野辰之の童謡のふるさとの歌詞のようだ。「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」と川でも遊んだし、よく集団でお宮で遊んだ。昔、雷が落ちて大きな穴が開いている大木の穴の中に入って登ったりもした。鬼ごっこや、2人が両端を持って回す大縄飛び、私は運動神経が鈍いので、中々回転している縄の中に入れず苦手だった。野球なんかもやった、お宮では狭かったけど。

 家ではままごとや、当時カール人形がはやっていて口とお尻に穴が開いていて口から水を入れるとお尻の穴から出るのだ。

 私は昭和25年に生まれた。終戦から5年経っていて物が無い時代であった.。

5歳ぐらいの時だったと思うが、よく親がお金無いのにカール人形を買ってくれたものだと思う。しかし外で遊ぶことの方が多かった。そして泥だらけになってお腹をすかせて帰って行く。母の作ったごはんは凄く美味しかった。ろくなおかずは無かったのだが。あの頃バナナがすごい高級品で中々食べられなかった。風邪をひいた時位かな、風邪をひくとバナナとミカンの缶詰が食べられるので楽しみだった。

 私の家の近くには子供が沢山いた。お金持ちの華子ちゃん(仮名)、当時はお金持ちと貧乏な家がはっきり別れていたような気がする。よく遊びに行き家に上がると文化的な素敵な家だった。オルガンがあったな。着ている洋服も何か違うんだ。でも父親が家にいて、私が行くとよく算数の問題なんかをだすんだ。1歳年下の華子ちゃんは答えられるんだけど、私はわからない。優越感を感じていたのかな、嫌みな親父だ。

 近所に交番兼住宅があって、その家には律子ちゃん、紀子ちゃん(いずれも仮名)と男の子2人がいた。その頃道路の舗装工事をやっていて、大きな土管が沢山置いてあって皆でその中に入って遊んだ。舗装してない道路は車が走るとホコリが舞い立ち、雨が降ると泥まみれになる。

 おまわりさんは優しい人だった。私はよくお宅でごちそうになった。奥さんは良妻賢母を絵に描いたような人だった。今でも覚えているのが、甘酒をもらったのだが、その中に黒い煮豆が入っていた。思わず「まずっ、普通の甘酒がいいのに」と、その他の食事はとても美味しかった。でもめったに笑わない人だった。

 おまわりさんは日曜大工が好きみたいで、裏庭にトタンや板で変な物置風なものを造っていた。地震がきたらすぐぺしゃんこになりそうな代物だ。今では考えられない、よき時代だったんだと思う。

 まずいと言えば、飲みはしなかったがこんなことがあった。私の家の隣は魚屋だった。ろくちゃんという人がやっていた。ろくちゃんが結婚して子供が生まれて私が遊びに行った時、奥さんがお乳が張ってしまい、ご飯茶碗になみなみとお乳を絞っていた。「飲む?」と聞かれ即座に断った。勘弁してくれよ。絶対いらない。

 私はかなり人なつこいと言うか、図々しいところがある。昔、駅から私の家の前まで路線バスが運行していた。そして運転手さんが私の家の水道が外にあったので、水を飲んで一息入れてから又駅に向かうのだ。あるとき私は運転手さんに頼み込んだ。「私を駅まで一往復、ただで乗せて下さい。」と、心の中では水道のお礼にと、ちゃっかり思いながら。ドライブは快適だった。

 家には越中富山の薬売りのおじさんが、薬箱の中の薬の交換に度々やって来ていて顔見知りになっていた。私はそのおじさんについて行ったこともあった。「おじさんと一緒に富山に遊びに行くか?」と聞かれて「父ちゃんに聞いてみる」と言って父親に話したら、こっぴどく怒られた。

 私の夫は子供の頃、家の庭に大きな木があって父親がその木の上に4人ほど入れる箱状のものを造ってくれて、よくそこで将棋をしたと話していた。映画のスタンドバイミーでもそんなシーンがあった。夢のある話だ。

 夫が生まれた昭和28年にテレビの放送が始まった。高額なテレビは中々買うことができず、私達は子供の頃、近所のお米屋さんに大勢で押しかけた。風小僧と月光仮面を見るために。風小僧を主演した山城新伍は昔はいい男だった。私はその頃から面食いだったんだ。月光仮面は大瀬康一、よく覚えている。そのうちお米屋さんにも「今日は来客があるからごめんね」とか言われて断られるようになった。だんだん近所でもテレビを買う家がでてきた。上皇ご夫妻の結婚式が昭和34年で、当時私は9歳、その時も隣の家で見せてもらったから我が家にはテレビは無かった。私はどうしても欲しかったので、段ボールの箱に穴を開け顔を出しては「父ちゃん、テレビ買って」と叫んだ。そして我が家にもやっとこテレビがやってきた。

 戦後の昭和の時代って映画、ALWAYS三丁目の夕日のまんまだ。貧しくて物は無かったけれどいい時代だった。子供達は自由に遊び、自然に親しんだ。この世で恐いものは地震・雷・火事・親父の時代だった。私の父親も威張っていた。仕事を終えて家に帰るとすぐに1杯酒を飲み出した。溶けて血が滴る鯨肉の刺身をつまみながら満州の話が始まるんだ。今の親父さん達は結構優しくなったと思う。

 時代は変わった。今は外で子供達が遊んでいるのをあまり見ることが無い。学校の校庭も放課後や休日も自由には入れず、少年野球などが許可を取って使用している。先日孫と近所の公園にサッカーボールを持って行ったらサッカー禁止の看板が出ていた。なんか窮屈な時代になったもんだ。

 子供達は習い事か、家でスマホでゲームやユーチューブを見ているのだろうか。

隣近所も挨拶程度、なんか寂しいものだ。

 世の中は進歩し続けている。このまま人間までもが、デジタル化(デジタルの意味が今一わからないけど)していくのだろうか?

 

夏目漱石のパクリ版風、ココちゃん物語のはじまり、はじまり

今週のお題「ホーム画面」

 

 最近新しいパソコンを買いました。そこにはまだホーム画面は設定していません。旧パソコンのデスクトップには我が家の愛猫のココちゃんの写真がアップされていました。本日はココの思い出をココ目線で綴りたいと思います。

 

    

 我輩は猫である。名前はココ。ある日、我輩がペットショップでくつろいでいると元スマップの草薙剛によく似た男の子が彼女とやってきて我輩を見初め、バイトで稼いだ金、9万円で我輩を購入。それも女の子として。我輩は正真正銘の男子なのにペットショップもなにを考えているんだ。

 我輩?なんか明治っぽいな、ここからは今風の僕に変更する。僕は血統書によると、父、プー太郎、母、ななえの間に生まれたゴールデンチンチラ、無礼者、僕はれっきとした男子である。後日僕が階段の5段目から落下してちょっと怪我をして獣医さんに連れて行かれたとき、女医さんに「この子は男の子です」と言われ、僕の飼い主はペットショップに行き1万円キャッシュバックしてもらったんだ。

 親には内緒で僕を買ったらしく、しばらくの間僕は二階で窮屈な生活を強いられる。ある日その息子のクルクルパーマにメガネの母親が二階に上がって来て僕を発見する。「きゃーどうしたん?でも可愛い」と言って僕を抱きしめる。がさつではあるが、人は良さそうだ。そして僕はその日を境に正々堂々とこの家全体を僕の縄張りとするんだ、マーキングで匂いを付けながら。

 草薙似の息子はバンドをやるために僕をおいてさっさと東京に行ってしまった。その後、両親と娘、次男の4人と1匹で暮らすことになったんだ。娘はちょっと可愛いけど僕のことはすこぶる嫌っていた。娘の部屋のベッドの上にうんちをしたり、嫌われて当然か。こんなこともあったな。娘が美容と健康の為にウオーキングマシンを買ったんだ。初めてそれを動かした時、僕もすごい興味を覚え、格好良く飛び乗った、と同時に挟まった。「痛いっ、どうすりゃいいんだ?助けてえー」クルクルパーマと娘は必死ではずそうとするが、僕も痛いから手に噛みつく、やっとはずれたが、お陰様で怪我は無かった。それ以来マシンはホコリをかぶったままだ。大体においてこの家の家族は不要なものを買いすぎるんだ。草薙似がサンドバックのセットも買って設置したが、やっているところは見たこと無かったぞ。

 今思えば、ペットショップで買われた時、僕は美しく気品さえたたえていたとは思う。しかしこの家にきてからというもの風呂に二三度入れてもらったがあまり暴れたため断念された。トリミングも凶暴なために、そういった場合麻酔を打つこともありますと言われ断念された。それ以来僕は自分の唾液で身繕いをしている。そんなに体臭はない。毛玉が沢山できるので、そのカットはクルクルパーマの仕事になった。

 そんな僕にも窓から外を見ているといろいろな女がやってくる。この家の者達は僕の事をチンチラ界のキムタクと言っている。あまり器量の良くない白猫がたまにやって来る。皆は静香と呼んでいる。言っときますが工藤さんは美しいですよ。年増もやってくる。仕方なく雄叫びをあげて付き合ってやっている。ガラス越しの恋。しかし僕は童貞のまま一生を終えるのか。

 クルクルパーマは友達をお茶に呼ぶのが好きで結構いろんな人が訪ねて来た。僕は好き嫌いが激しいから、それぞれ対応が違ってくる。今一、気に入らないとシャーっと威嚇する。気に入った人にはすり寄って行く。

 そんなこんなで16年間この家でお世話になった。最後は膵臓がんだった。僕の家族葬には草薙似が東京から新幹線で帰って来た。普段は1年に1度くらいしか帰らないのに。

 今僕は庭の片隅でゆっくりと休んでいる。時々クルクルパーマが江ノ島で買ってきた猫と話しながら。

 

               お し ま い

 

 

 

 

 

 

サボりは私の代名詞

今週のお題「サボりたいこと」

 

今週のお題「サボりたいこと」はまさに私にピッタリだ。いわゆる私の代名詞みたいなものだ。

 小学校の低学年の頃は、とにかく学校が面倒くさかった。よく頭やお腹が痛いとか

言って早帰りした。家の窓から外をボーッと眺めていると向こうから馬場君がやってくる。あのまずい給食のパンを届けに来てくれたんだ。 馬場君は勉強ができた。今どうしているだろう、元気かな。

 近くに保育園があったけど私は入れてもらえなかった。なぜだろう。家にお金がなかったのか、それとも面倒くさかったのかな。学校に入りたての頃、父がよく勉強を教えてくれた記憶がある。教育パパ。母も私が夏休みの宿題がやってなくて、登校日の早朝に蚊帳の中で、一生懸命に教えてくれるんだ。でも私はその時に思った。「今から教えたって間に合わない。自分でやっちゃえばいいのに」と。

 こんなこともあった。夏休みの課題で工作を作っていくのだが、やはりやってない。父親が頑張った。大工の父が家の模型を作った。さすがプロは違う。でも学校へ持って行ったがあまり褒められた記憶が無い。先生もわかったんだろうな親が作ったって。

 そんな私も徐々に目立ちたがりの本性が出てきて活発になっていった。参観日の日だったかな、親にいいとこ見せようと思って、授業で答えがわからないのに「はい、はい」と手をあげ、前に出て黒板の前で「やっぱり、わかりません」と帰ってくる。私って昔から変な女だったんだとつくづく思う。

 就職してからも、そう、その日は家は出たのだがどうしても仕事に行きたくない「具合が悪いので今日は休みます」と電話して映画館に入った。すいていたので、一番後ろの席で母が作った弁当を食べながらロミオとジュリエットを見たオリヴィア・ハッセイとレナード・ホワイテイング、素敵な映画だった。特にロミオ達が敵対するキャピレット家のパーテイに仮装して潜入し、ジュリエットを見つけてその美しさに息をのむシーンは素敵だ。テーマ音楽もとてもいい。よくフィギユアスケートの選手が大会で使っている。その後デイカプリオの映画もあったけど、やはり時代を忠実に表現した前作の方が私は好きだ。まあそんなこともあったが、9年間も一生懸命勤めたんだから許してほしい。こんなこともあった、たまに遅刻した。朝礼が始まっている。壁伝いにそーっと入っていくと、支店長代理が「わかってるんだぞ」と横目で睨む。

 私には子供が3人いるが、こんな私を引き継いでしまったのが、今同居している長男だ。彼も時間にルーズであった。幼稚園の時も朝行く前に四つん這いになり、腰を高くして伸びている。早く行ってくれないかといらいらしていると、義母が自分の娘もそうだったと話す。いわゆる彼の伯母である。変なことが遺伝するものだ。

 よく娘が言っていた。小学校の頃、朝グランドで並んでいると、寝癖のついた頭でランドセルを背負ってやって来るのがいる、よく見ると弟だったと。高校の頃も面談に行ったら先生が、息子の遅刻はとても多くて数分遅れるらしい。早退も多く、だが、必ず理由を言ってから帰っていくらしい。よく学校に呼ばれた。入学式の日に校則のプリントを貰った。茶髪禁止、翌日二階から降りてきた息子の髪は金髪ではないか。それについてはあまりおとがめは無かったが、学業不振、運転免許を早く取り過ぎた事で呼ばれた。学業不振の時はテストの答案に落書きを書いて出したらしい。広い会議室に2組の親子が呼ばれ注意を受けた。「お母さん一言どうぞ」と言われたが声が震えた。運転免許の時は校長室だった。担任の先生が一生懸命フォローして下さった。息子が卒業する日の謝恩会で私は「この愚息が今日卒業できるのはひとえに先生方のお陰です」と言って、大黒摩季さんのら・ら・らを歌った。しかし皆、就職や大学、専門学校などが決まり卒業していくというのに、家の息子はフリーター、その母ちゃんはのんきに歌なんか歌っちゃって。今考えるとばかみたいだ。

 しかし、あの時は大黒摩季さんの音程でバッチリ歌えたのに今は高音が出ない。今はサザンの桑田佳祐さんの音程が合う。先日バレーボールの仲間の若いお母ちゃんが、ご主人の転勤で遠方に行く事になった。彼女に贈る歌として私は図々しくもサザンの東京VICORYをスマホに吹き込み、バレーの連絡網用のラインに載せた。皆いいねって言ってくれたけど、あきれた人もいたかもな、息子は「お母は心臓強いね」と言っていた。

 息子は高校卒業後、バイトで稼いで金を貯め、バンドをやるために東京に行った。が成功はしなかった。でも今は地元で就職し、いろいろな資格を取りまくった。やればできるじゃん。時間にも几帳面になった。変われば変わるもんだ。

 しかし夫が入院し、モンスター化した母の介護、耐えられるのはひとえに君が帰ってきてくれたおかげです。

 サボりは必要だね。明日の英気を養い、人間らしさを取り戻すためにも。

 

もう1度行きたい江ノ島

今週のお題「好きな街」

 

 いつも私のつたない文章を読んで頂き本当にありがとうございます。読者になって頂いたり、☆☆☆を頂いたり、とても嬉しいです。ただ、まだこのはてなブログのシステムや言葉の意味が今一わからず、もっと研究しなければと思うのですが、最近息子に聞いても、「もっと頭を使って自分で考えて」と言います。おまけに私が何かしゃべる時も、「ただ口から発するのではなくて、脳みそを経由させて」と言いはなちます。

 先日アカデミー賞ドライブマイカを見て今一ピンと来なかったので、息子にその映画を見て感想を聞かせてと言い、一緒に見ることにしました。息子はとてもいい映画だと言っていました。ただ西島秀俊さんの結構長いラブシーンを見る時は、何か複雑な気分ではありました。それにしてもあれだけ評価された映画を見てもあまりピンとこないのは、私の感性が衰えてきているのでしょうか。

 息子は進撃の巨人が大好きで、ドライブマイカーを見るのも付き合ったからと、私が少し頭を使うように、奥の深いアニメだからと毎日2話づつ見させられています。これも内容が今一私には難しいです。しかし、まだまだ話は続きます。

 

 「好きな街」は江ノ島が好きですね。2回ほど行きました。子供達と1度、その何年か後で、夫と私の両親の4人でも行きました。長い橋を渡ると細い坂道が続き、突き当たりに江ノ島神社があります。道の両側にはお店が沢山あります。向かって左側に千円均一のお店があり、そこで陶器の猫の置物を買ってきました。その猫は今、庭の石の上で鎮座して道行く人達を眺めております。私はどうしても江ノ電に乗りたくて、1人で行ってきました。本当に家と家の間を縫うように走って行くんですね。1度降りて長谷寺に行ってみました。あじさいの頃は綺麗でしょうね。鎌倉高校前という駅はよくドラマに出てきますが、すぐ裏手は墓地になっていて驚きました。江ノ島で1泊し美味しいお刺身を沢山食べました。夫はその時に食べた生しらすの味が忘れられないとよく言います。夫は今体調を崩して入院しています。絶対治して生シラスを食べにもう1度江ノ島に行きたいです。

 松潤陽だまりの彼女という映画に江ノ島が出てきます。海の岩場で助けられた猫が、助けてくれた少年に恋をして、人間になって彼の前に現れるというファンタジーです。とっても綺麗な映画です。

 たしかに江ノ島の公園に猫がいっぱいおりました。そういえば昔読んだ本で、雌猫が男と暮らしているところに、その男の彼女がやって来て一緒に住むようになります。雌猫はその男が大好きで、女にすごく嫉妬します。やがて女は雌猫の意地悪に耐えきれず家を出て行きます。その時、雌猫は勝ち誇ったように女を見送るのです。猫ってそんな気配はありますよね。我家ではココちゃんというゴールデンチンチラを飼っていました。息子が親に内緒でバイトで稼いだ金で買って、こっそりと2階で飼っているところをある日発見しました。息子はその猫を置いて東京に行ってしまいました。宅急便で送ってやろうかとも思いましたが、結局16年間飼いました。血統書付きの猫なのに、我家に来るとなぜか、野良猫化します。私の父が亡くなり、母が同居するようになった時、母が玄関を入ろうとするとココは玄関に長々と横たわり母を威嚇していました。「シャー」と、僕の方がこの家では長いんだよとばかりに。母が廊下を通ろうとした時も意地悪に通せんぼをしていました。猫って何か犬と違って一物を持っていますね。

 鎌倉と言えば、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台です。三谷幸喜さんの脚本のせいかわかりやすいです。頼朝の死後、二代将軍となったのが、21歳の嫡男、源頼家だったのですが、まだ若く将軍としても人間としても未熟なため、有力御家人たちは、頼家の権限を制限するために、13人の合議制を導入したと最近買った本に書いてありました。正直、この時代は源頼朝義経くらいしか記憶になかったですが、勉強になります。日本の歴史を振り返っても、とにかく戦いの連続です。

 

 93歳の母がショートから帰って来ました。この頃は私の顔を見ると「具合悪い」と頻繁に言います。お医者さんに連れて行くと血液検査は異常ないと言われます。数字には出ないけれど、本人にとってはどうしようもなく具合が悪いのだと思います。ポータブルトイレも自力では無理になってきたので、呼び出しのベルを買いました。母が押すと私の横で「いらっしゃいませ」と音声が流れます。夜中に3回「いらしゃいませ」1回は水、吸飲み枕元に置いてあるのに… 2回はトイレ

 今日もまた「いらっしゃいませ」母と私の戦(いくさ)はまだまだ続きます。

  ☆いらっしゃいませ!

 

 

 

 

 

 

 

好きな公園はドラマの中の公園

今週のお題「好きな公園」

 

 私の好きな公園は、ドラマの中の公園、松潤小雪さんのきみはペットの中に出てくる公園。2人で広い公園に行き、お弁当を食べて、モモがすみれの膝枕で、「このまま時が止まればいいのに」と思う。何かあのシーンがとってもいい。あの公園に行ってみたい。

 この間写真を整理していたら、私達夫婦の若い時、夏のどこかのスキー場のリフト乗り場みたいな所で膝枕で撮った写真をみっけた。小っ恥ずかしいなんて、あの頃は夫の髪の毛あったよな。しかし人間はなぜ老化するのかね。いや人間だけじゃないぞ、この間散歩していたら、ラブラドールがすごい年寄りで、顔はぶる下がり、1歩踏み出すのも容易じゃない。あそこまでいったら寝かせておいてやればいいのにと思ったけど、余計なお世話か。

 老化と言えば、私の手、すごい老化している。縮緬皺がよっている。今まで一つも手入れしてこなかったつけだ。娘に奨められて高級なハンドクリームをあわてて通販で買ってはみたものの、ハンドクリームにしてはお値段が張りすぎるので数回で解約。昔から手は手入れしないわりにコンプレックスを持っていた。ママさんバレーの時、皆で円陣を組んでファイトとやるのだが、若いお母ちゃん達の手がめちゃくちゃ綺麗なんだ。思わず私は手のひらを上に向けファイトと叫ぶ。

 よくテレビで栄養食品や化粧品の宣伝で使用前、使用後とやっている。使用前はノーメイクでシミだらけ、使用後はバッチリ化粧してドレスアップ、「とても70代には見えません」なんて言ってるけど無理があるな。ある程度努力で老化は遅らせるかもしれないけど、あまり無理をせずに年相応に生きることもそれはそれで気楽でいいかもしれない。

 私はどちらかというと無理していい人ぶっているところがある。本当はもっと本能のままに生きたい。いじわるで毒舌をはきながら。

 宮崎駿天空の城ラピユタのマ=ドーラ、顔は皺だらけでめちゃくちゃ強い、千と千尋の神隠しの湯婆婆、悪で欲が深くて、でもちょっとかわいいところもある。こんなばあさん達に憧れる。

なぜか、好きな公園から話がそれた。

私の部屋は仮の部屋

今週のお題 私の部屋 (もう期限切れちゃいました?)

 

 私の部屋はありません。2年ほど前に家を新築しました。それをきっかけにバツイチの長男が東京から帰って来てくれて同居しています。

 今のところ、2階に2部屋あり、長男と私がそれぞれ使っています。そして夫は1階の座敷で寝ています。私の93歳の母は以前大工の父が造ってくれた隣接した建物にベッドを置いて過ごしております。

 もし長男にお嫁さんが来てくれたら、私達はその古い建物の母の隣の部屋に移るつもりではおります。しかし、たとえお嫁さんが見つかったとしても同居なんか嫌じゃないかと思うんですよ。アパートでも借りて自由にやりたいですよね。

 正直私も今の部屋すごく気に入っています。東と南に窓があります。東側のお隣の庭がすごく広くてしっかり手入れされています。それぞれの季節にいろいろな花が咲き誇ります。カーテンを開けるとまるで自分の家の庭みたいです。遠くに山並みが見え季節ごとに色彩が変わっていきます。

 うーん、お嫁さんに来てもらって同居したいけど、この部屋出たくなーい。

仲良しの友達は「今頃同居なんてやめときな」と言います。まーそれは、見つかったら考えるか。昔は女の子に不自由しなかったのに最近はさっぱりだよな。会社と家を行き来するだけ。

 でも新築して一番嬉しかったことは、物が無い事。古い家を壊す時、夫と2人でゴミ処理場へ行き捨てまくりました。私は古い家で物に苦しみました。義母は物を捨てられない、集める趣味。まあ倉庫状態の中で暮らしていました。とにかく、ただでもらうのが快感なんです。ある時など見知らぬおじいさんが、タイル張りの流しのような物を背負ってやって来ました。「何ですか?」と聞くとお宅のおばあさんに持って行くようにたのまれたと言うのです。壊している家を見ていてほしくなったらしいです。最近来ませんが、高額な布団や健康食品を売る為に大勢の人を集めていろいろな日用品をただでくれるところにもよく通い、いろんな物をもらってきました。そんな物にあふれた家に夫は会社の後輩をよく連れてきました。夜遅く電話してきて、「今から行くから」うっそー、娘と一緒に茶の間の物を奥の部屋に投げ込みます。実は私も整理力の素質がありません。ある時は夜遅く連れてきて泊まることになり、いい布団がなくて子供の寝ている布団が一番程度が良かったので、それを裏返して敷いてあげました。

 義母が亡くなって31年経ちます。実に面白い人でした。歌が大好きで、私も好きだったので、よく2人でカラオケ大会に出場しました。結構どちらかが予選を通過するんですよ。NHKのど自慢の時は私が受かって義母が落選しました。駅までの道をとぼとぼと歩いていた姿を思い出します。お酒が大好きで、ちょっと飲み過ぎではあるのですが、何かの会合でお酒が出たのでしょう、向こうの方からよろよろと、変なおばあさんが古い旧式の自転車を引っ張って歩いて来る、「あれは、うちのばあちゃんだ」その当時流行っていたカツラがずれちゃってる。早く家に入って欲しい。

 義父もやはり酒飲みで、よくちゃぶ台をひっくり返していたそうです。いつでも逃げられるように寝巻き起き巻き外出着だったと聞き慣れない言葉を言っておりました。

 私が会社を退職した日に義母は赤飯を炊いて待っていてくれました。食紅がたっぷり入った真っ赤な赤飯の色が目に染みました。でもとても嬉しかったです。

 私達が新婚の頃は母屋の隣の物置みたいな所で寝起きしておりましたが、あまりのボロさで途中から母屋の座敷で寝起きするようになりました。義母達もそこで暮らしていたらしく、新婚で来た夜は畳が敷いてあったのですが次の日は片づけられたらしい、1日嫁が来るから畳をかりてきたらしいです。NHK連続テレビ小説おしんの住むような家でした。ところが母屋の座敷の隣が襖を挟んで茶の間で、義母は酔って帰ってきたりしてそこの炬燵でいつも寝てしまいます。「おまいた、おらあ全然音聞こえないから、安気にやったい」と言うのです。さすがに私も「ばあちゃん、このままじゃ子供もできないよ、2階で寝て」とたのみました。義母は納得して2階で寝るようになりました。

 義母は私が仕事に行く時やママさんバレーの時3人の子供達の面倒をよく見てくれました。私は、はたしてあんないいばあちゃんになれますかね。

「ばあちゃん、天国はどうだい? 八代亜紀の女の夢上手だったよね。歌ってるかい。うちにいい嫁さん連れてきてね。いつでも私達古い部屋へ移るからね。」